映画「君の膵臓をたべたい」。
タイトルからはミステリーやホラーを想像する方もいるかもしれませんが、これは人の生と死、そして人間同士のつながりを描いた感動の青春映画です。
2017年に公開され、住野よる氏による同名小説を原作とするこの作品は、日本国内外で大きな話題を呼びました。
この記事では、映画の詳細なあらすじや衝撃のラストシーンの意味、そして作品を観た後に心に残るメッセージを掘り下げていきます。
映画『君の膵臓をたべたい』のあらすじ
物語は、内向的で友人を作らないことを選んでいる高校生の「僕」(北村匠海)と、明るく社交的でクラスの人気者である山内桜良(浜辺美波)との偶然の出会いから始まります。
共病文庫との出会い
ある日、「僕」は病院で「共病文庫」という一冊のノートを拾います。それは、桜良が自分の膵臓の病気と余命わずかであることを日記として綴ったものでした。
自分が死に至る病に冒されていることを知っているにもかかわらず、桜良はその事実を誰にも明かしていません。「僕」だけがこの秘密を知る特別な存在となります。
桜良は「僕」に「普通の人として接してほしい」と頼み、二人は病気を抱えた桜良の限られた時間をともに過ごすようになります。
一緒に図書館に行ったり、旅行に出かけたりする中で、桜良の無邪気で明るい性格に「僕」は少しずつ影響を受け、変わっていきます。
不可避の別れと衝撃的な展開
物語は予定調和では終わりません。桜良の病状が悪化する中、二人は退院後に会う約束をします。しかし、その日を迎えることなく、桜良は通り魔に襲われ、命を落としてしまいます。
「僕」は突然の出来事に深い喪失感を抱きますが、桜良の死をきっかけに、自分の殻を破り、周囲の人々と向き合い始めるようになります。
ラストシーンの意味を深掘り
桜良が病気ではなく通り魔事件で亡くなる展開は、多くの観客に衝撃を与えました。
この予想外の結末にはいくつかのテーマが隠されています。
人生の予測不可能性
誰しも「いつ死ぬか」はわからないという人生の儚さを、この映画は鮮烈に描きます。
桜良がどんなに病気と向き合い、残りの人生を楽しもうとしても、突然の暴力によって命を奪われる。
この現実は、私たちに「今日をどう生きるか」を考えさせます。
「君の膵臓をたべたい」の本当の意味
タイトルは物騒にも聞こえますが、桜良が「君の膵臓をたべたい」と語る背景には、彼女なりの深い感情が隠されています。
膵臓は古くから「魂が宿る臓器」とも言われています。
この言葉は、「僕」と深くつながりたい、そして「僕」に自分の命を託すような願いが込められていると解釈できます。
桜良の存在の遺産
「僕」は、桜良の死を通じて内向的な自分を変えるきっかけを得ました。
彼女が残した「共病文庫」や、生前の言葉は「僕」の人生に深い影響を与えます。
死によって終わるのではなく、彼女の生き様は「僕」を通じて未来に続いていくのです。
映画の感想とレビュー
『君の膵臓をたべたい』は、青春映画の枠を超え、観る者の人生観に深く訴えかける作品です。
演技の素晴らしさ
浜辺美波が演じた山内桜良は、天真爛漫でありながら死と向き合う姿勢が痛々しいほどリアルでした。
また、「僕」を演じた北村匠海は、内向的で感情を表に出さない青年の心の葛藤を見事に表現しています。
2人の演技がこの映画の感動を倍増させています。
ビジュアルと音楽の融合
映画の映像美も見逃せません。特に、桜が舞う季節の描写や、海辺のシーンなど、日本映画ならではの繊細な感性が光ります。
さらに、住野よる作品の映画化に欠かせないテーマ曲「himawari」(Mr.Children)は、物語の余韻を心に刻む大きな要因となっています。
賛否両論のラスト
通り魔事件という展開には驚きを隠せない観客も多かったものの、この予想外の結末が、映画のテーマを強く押し出しています。
ありきたりな「感動の死」では終わらせない点に、本作の挑戦的な姿勢がうかがえます。
まとめ
映画『君の膵臓をたべたい』は、観る者に「生きるとは何か」を問いかける作品です。
桜良と「僕」の交流は、笑顔と涙のバランスが絶妙であり、誰もが共感できる普遍的なテーマを内包しています。
桜良の命の儚さと、「僕」の成長という物語の二重構造は、鑑賞後も長く心に残るでしょう。
もしまだこの作品を観ていないなら、ぜひ鑑賞してみてください。
あなた自身の人生についても、新たな視点を得られるはずです。
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